発達障がい牧師ヒラリンの日記

世の中真っすぐな道は無いように、欠けや欠点の無い人もいない。発達障がいだから人生は面白い!

正しさは曲者

最近は減って来たが、「私たちの教会は、○○○と○○○と○○○とは一切関係がありません」と週報に記載される教会がある。確かにそれらの群れは、カルト的傾向が見受けられ、教理的にも違う点があるし、そのことで誤解を受けたり、伝道活動に置いて支障が出た経験がお有りになるのであろう。僕自身も、それに近い発言をしたことがあるので、気持ちの上では理解出来る思いではある。
しかし、どうなのであろうか!その意識の中には「自分たちは正統」という意識が強く働いているのではないだろうか。この「自分(たち)は正統」というのは、いろんな点からも曲者だと思うし、そこには愛の意識はなく、排除の論理が働いているように思える。そして、上記の3グループだけでなく、いわゆるカルト集団のことで困窮し苦しんでおられる方が多数いらっしゃることを思うと、「お困りの方はご連絡下さい」とするのも一つかな、とも思う。
正統・異端の観点から述べるなら、アフリカではエホバの証人プロテスタントの1教派として認知されているようだし、ヨーロッパの一部の地域においては、バプテスト派はこれまでの歴史的経緯からいまだに異端視する向きもある。また、カトリックのマリア像のことを取り上げて、個人的見解としてではなく教派レベルで異端視する教派もある。
確かに、“教理”は必要だと思うし、何でもかでもOKとするわけには行かないとは思う。しかし、「正統」や「正しさ」を他者に向けることはとても配慮が必要だと思う。自分と異なる考えや意見に対して「正統」「正しさ」で相対することはとても気をつけないといけないし、自分自身の考えや意見がどうであるかにこそ心を向けないといけないと思う今日この頃である(笑い!

バプテスマまで

京都の仏教系の男子校から意図してではなかったが、兵庫県のミッション系の文学部に進学することになり、とても戸惑った。宗教に関してではない、だいたい入学式に出席して讃美歌が歌われるのを聞いて初めて、キリスト教の学校だったことを知ったほどなのだから(笑い!
その高校は、今は共学になったが、その頃は一学年600人、全校1800人の男子校で、進学先の大学の文学部は、通常は女子は7割ほどだったらしいが、私の学年は8割に迫る数だったそうで、阪神地区の深窓の令嬢の中に埋没した一年間だった。
京都から通う学生は多くはなく(私は下宿せずに四年間通ったが)、ゼミが同じだった友人のF君と通学の電車の中で親しくなり、彼に誘われて大学2年の夏から京都の単立(独立)教会に通うようになった。
その年の夏に阪神地区の大学の学生キャンプに参加したのだが、配属された班のリーダーの某名門女学院の音楽部のとっても可憐で素敵な一つ歳上のお嬢様のOさんに、見事に心奪われ、その彼女に喜ばれたい思いで教会に通い出したのだった。蛇足ながら、一つ歳上は同じだが、妻でないことは明言しておこう(笑い!
その班の男子リーダーのMさんも素敵な先輩で、後にそのキャンプの主催団体の主事をなさり、牧師にもなられた方で、この人にも惹かれて行ったことも、教会に通うきっかけとなった。
不純だとは思わないが、絵に描いたような若者特有の理由で通い始めたが、これがなかなか信じられなかった。
何かと口実をつけてOさんに電話したものだった。彼女と同じになりたい、彼女の喜ぶ顔が見たい一心だったので、彼女は神戸、私は京都と当然教会は別々だったが、毎週教会には通い、F君が所属していた大学の聖書研究会にも皆勤し、自分でも熱心に新約聖書を読み始めたが、読めば読むほどに疑問が沸いて来て、信じることが出来なかった。処女降誕とか、イエスが水の上を渡っただの、5000人に腹いっぱい食べさせたとか、あらゆる病気が即座に治ったなど、知れば知るほどわからなくなり、袋小路に入ってしまった。
詳しく書き出すと切りがないので、少し端折るが、あることがきっかけでMさんの御自宅に泊まりに行くことになり、Mさんには全幅の信頼を置いていたので、優しいMさんなら私の疑問に完璧に答えを与えて下さり、私の疑問は解消され、信仰を得ることが出来ると勝手に考えて、大いなる期待をもって、Mさんに正直に疑問をぶつけてみた。Mさんは私の話に心を込めて深夜まで耳を傾けてつき合って下さったのだが、私の疑問は解けなかった。
Mさんに聞いてもらって答えをもらえれば信じれるようになると思い込んでいただけに、私の失望は大きく、明朝Mさんの御自宅を離れ、暗い気持ちで学校に向かった。ああ、俺は一生信じることが出来ないままクリスチャンにはなれない、MさんにもOさんにも喜んでもらえない・・・と、若かった私は絶望とまではいかないけど、希望がなくなったような暗い気持ちで、阪急電車神戸線に乗って大学に向かった。
大学2年の時で、確か9月の誕生日を迎えた二十歳の年の10月のことだった。お昼前の電車は空いており、なんてことないいつものままの電車の風景。暗い気持ちのまま、シートに腰かけていたその時、窓からは秋の太陽が窓を通して、私の背中にその日差しをあてていた。その瞬間、パウロの回心の場面のように天からの光がおこったのでも、あの佐藤初女さんのように、空の雲でみ言葉が読めたのでもない、まったく普通の電車のなか、ただ、その背中を通してあたる太陽の温もりの中に、神さまの臨在を強く感じたのでした。心にあった様々な疑問は何も解消しないままだったけど、そんなこともうどうでもよくなった。処女で生まれようが、水の上を歩けたかどうか、俺には何の関係もない!でも、目には見えなくても、神さまは俺の近くにいつも居て下さるのだ、とそのことだけを確信することが出来た。繰り返すが、あれだけ悩んで苦しんだ疑問は疑問のままだったのだが。
目的の駅でもなかったが、次の駅ですぐに電車を降り、ホームにあった公衆電話に駆け寄り、通っていた教会の牧師に電話をかけ、「先生、樸、洗礼受けます。洗礼受けさせて下さい」と告げたのだった。

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私のこだわり その①珈琲 弐

インスタントコーヒーを飲まないことは前回書いた。

私はインスタントコーヒーと珈琲は別ものだと思っている。これによってコーヒーが手軽に飲めるようにはなり、身近になったのかもしれない。

しかしインスタントラーメンとラーメンとに一線が引かれているほどには、珈琲に関しては別物扱いされていないように思える。これは珈琲好きには甚だ迷惑なことで、頭が痛い問題なのだ。

「ラーメン食べますか」と言って、インスタントラーメンが供されることはあまり無いと思うのだが、これが珈琲になると話はかわる。

「珈琲飲みませんか」と勧められて、「はい」と答えた私の前に何度インスタントコーヒーが出されてきたことか。それなら最初から「インスタントコーヒー」と言ってもらえれば、答えは当然違っていたのである。

世の多くの人の頭の中にはインスタントコーヒーと珈琲は同じ範疇のもので、インスタントも珈琲の一つの種類であるかのような扱いである。インスタントコーヒーは珈琲ではない、別な飲料だと思うのだが・・・

 

Vin珈琲のマスターはよく言っていた。

「珈琲はこうあらねばならないとか、こうすべき、という絶対はない。本人が飲みたいように飲めばよいのだ」

砂糖もミルクも置かない店のマスターの言う事ではないだろう、と突っ込みを入れたくもなるが、言いたいことは分かるし、その通りだと思う。淹れ方の正解や飲み方の王道はないのだ。一人ひとりが自分の好みとスタイルを持てばよいこと。

 

それにしても、珈琲の世界は奥が深い。一度はまれば、こだわりだしたら、抜けられない。

私は、豆を自分で買って、ミルで挽き、ペーパードリップで淹れるのだが・・・

ここまでで、もう既にいくつかの分かれ道がある。

・豆の種類の選定

・豆の煎り方(深・中・浅煎り)

・豆の挽き方(細・中・粗挽き)

それら一つひとつを変えれば、それぞれに味が異なる(ように思える)。

だから、豆をモカにしたところで、中煎りか深煎りか、また挽き方はどちらか、という具合に組み合わせによって味は異なってくる。これに豆の種類を重ね合わせれば、その組み合わせだけでは宇宙的なほどの広がりとなる。

で、それに淹れ方が加わる。湯温は?蒸らし時間は?抽出時間は? それぞれによっても違いが出る(らしい)。

そして決定的に重要なことに、湯の注ぎ方がある。湯は出来るだけ、細く静かに、落ちる湯で粉を掻き回さずに注ぐことがコツだとよく言われる。

これ以外にも水はどんな水か、豆の保存方法、ドリップと言っても、フィルターは台形それとも円錐形?等々

こだわり出したらきりがない。マニアの世界どころか、病気とも言える領域になる

 

私は、どちらかというと、酸味よりも苦味が好みなので、種類ではマンデリンやジャワ系、焙煎は深煎りか中深煎り、挽きは中挽きが基本だが、苦味を生かしたいので細挽きも

と、言葉にすると、こうなるのだが、人間の好みと言うのは、変わるもので、酸味が強くてもすっきりしたコスタリカ産を好んだこともあるし、粗挽きで飲んでみたら、意外とおいしく感じたりもするのだから、いい加減だ。

そうなのだ。同じ豆を同じように淹れたとしても、その時の心や体の状態によって、味が違うように感じるのだ。

 

だから、珈琲に王道はない、のだと思う。

 

でも、美味しい珈琲が飲みたい!これが、私の願いであり、こだわりなのだ。

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私のこだわり その① 珈琲 壱

私は珈琲好きを自認している。インスタントコーヒーは飲まない。インスタントコーヒーを珈琲と呼ぶことを止めて欲しいと願っている。

 

子どもの頃は、珈琲の味が分からなかった(未だにビールの味は全く分からない)。インスタントコーヒーに砂糖たっぷりとミルクを入れないと飲めなかった。学習塾で講師をしている時の同僚の一人が珈琲の味の違いを語るのを聞いて、「そんなものか」と思ったのを覚えている。20代後半になってやっと、インスタントではあったが、ブラックで飲めるようになったものだった。

 

そんな私が珈琲にはまり込むようになったのは、大牟田時代に一軒の珈琲店と出会ったことに始まる。その頃は、まだ味はよく分かってはいなかったが、豆からドリップで飲むようになってはいた。

 

連れ合いと二人で大牟田の町を歩いていた時、彼女が一軒の珈琲店に注目して、そこに入ろうと言い出した。表通りにある店ではなく、小さなこじんまりとした店だった。店の構えからも何だか“こだわり”の店のようにも見えた。

店に入ると、カウンターの中のマスターらしき人物から「うちのメニューは珈琲だけで、ミルクも砂糖もお出ししていません」と告げられた。小さな店で、カウンターに7~8席と、そのトイメンに小さなテーブルが二つ置いてあり、他には豆等が陳列されているスペースがあるだけだった。

 

私の連れ合いは、珈琲好きだが、午後になってから飲むと眠れなくなる質。そのことをマスターに伝えると、「だまされたと思って、私の淹れる珈琲を飲んでみないか。珈琲を飲めば眠れなくなるということはない。それは思い込み。珈琲は人の心を和ませ、体をリラックスさせてくれるものだから」という。へー、おもろいこと言うマスターやなと思い、連れ合いもマスターおまかせで飲んでみた。結果、彼女はその日眠ることが出来た。珈琲の作用があったのか、マスターの暗示にかかってのことかは分からないが(笑い。マスターの淹れた珈琲はとても美味しかった。そのことは私たちの記憶には鮮烈に残りはしたが、その後、店の前を通ることはあっても中に入ることはなかった。

 

それから2年ほとだった頃であろうか、どんなきっかけだったかは思い出せないが、二人でその店に行く機会があった。たいした理由ではなかったと思う。おそらくたまたまその前を二人で通りかかった程度のことだったと思う。マスターは私たちのことを覚えてくれていた。

マスター 「寝れたでしょう?」

連れ合い 「はい、眠れました」

 

この流れからすると、その後すぐにその店に通うようになりそうなものだが、面白いことにそういうわけではなかった。珈琲が美味しかったのは事実なのだが、値段が高いのがネックになったのだろう。ここの珈琲一杯の値段は、600円!少しずつ珈琲にはまり出してはいたが、他のメニューは何もないし、珈琲一杯に600円出すほどの珈琲好きではまだなかったからかな・・・

 

それがである。二度あることは三度ある。天の神さまは、よっぽど私をこの店に行かそうと思われたのであろうか。うつで入院した病院でのこと(この病院も大牟田市内)。入院患者たちが次のような会話をしているのを耳にしたのだった。

(私の記憶の中からの再現シナリオ?)

患者A 「おい、行ったぞ、あの店に」

患者B 「変ったマスターだろ?砂糖もミルクもない店なんてな」

患者A 「でも、うまかったよな、あのマスターの珈琲は」

患者B 「俺も、○○さんに連れて行ってもらったんだ。」

砂糖もミルクもない店って?美味しい珈琲?変ったマスター?

二人に尋ねたら、やっぱりあのマスターの店だった。

 

で、それから、入院仲間を引き連れて、私はまたその珈琲店に行くことになったのだ。ただし、入院中の身、それでなくても、入院費用のバカ高い病院(一ヶ月約40万!)にいたのだから、しょっちゅうというわけには当然行かなかった。それでも珈琲好きを連れて何度か店に行ったものだった。淹れる湯の温度にこだわる高校教師や珈琲豆の営業マンなどと一緒に!

 

このマスターがまた、いろいろとやってくれるのだ。珈琲のこと、豆のことをいろいろと尋ねる私たちに、彼なりの独特の話術で丁寧に答えてくれるのはいいのだが、行くたびに淹れ方を変えてくるのだ。湯を注ぐのをさっと短時間ですませたり、すごくゆっくりと注いだりといった具合に。私も“の”の字を描くように湯を注ぐ、ということくらいは知っていたが、マスターはそんな淹れ方はしない。何とか淹れ方を盗もうと凝視する私たちを挑発するかのように、毎回出し方をかえてきた。独特の語りに耳を傾けていると、同じ種類の豆でも何とも味が違うように思えてくるのだ。

 

こんなこともあった。連れていった豆の営業マン、この“豆や”はアイスコーヒーは飲まない主義の人間だった。

曰く「アイスコーヒーは苦いだけ。それにシロップを入れてごまかしているに過ぎない。ただ苦いだけのコーヒーとあのべっとりとしたシロップの甘さは耐えられない」。

すると、このマスター、カウンターの奥の冷蔵庫から、冷やされた茶色の飲料を出してくるのだ。まさか、アイスコ珈琲なわけがないと思った。なぜなら、この店、基本のメニューにはアイスは入れていないからだ。その茶色の飲料を飲んだ“豆や”の顔が変る。美味しいのだ。当然、ミルクもシロップも入れはしない。私も飲んでみたが、珈琲の味がするのだ。でも、苦くないことは言うまでもなく、かといってすっぱいわけでもない。すっきりとした味で、のどにすがすがしさが残るのだ。私はあのアイス珈琲の味は忘れられないし、あれを超える冷たい飲み物には未だに出会ったことがない。マスターは気が向いたときにアイスを作るらしく、夏にいけばいつでも飲める代物ではないようだ。

 

それからは、その“豆や”と高校教師、そして、私の三人は、薀蓄を傾けながら珈琲を淹れ、入院仲間に飲ませるのが日常になってしまった。皆が喜んだかどうか、そんなことは二の次だった。かくして、私は珈琲ワールドにはまってしまったのだった。

 

この店、通信販売もしてくれるので、それ以降、高知に移ってからも、定期便として毎月送ってもらっていた。100グラムが600~700円だから、確かに安くはないが、それでもべらぼうな値段でもないのだが、それも1年ほど前に止めてしまった。そろそろ、一回、注文してみようか…

 

先日、自宅で珈琲を飲みながら、ふっと、この店とマスターのことを思い出した。

 

マスターに了承はとってないし、宣伝になるかは分からないが、まあいいだろう。後で、事後報告しておこう。

 

自家焙煎珈琲 Vin

 大牟田市本町1-1-1 電話 0944-56-5628

 11:00~18:00 毎週 水・木 定休日 (週休二日の喫茶店なんて他に聞いたことない!)

真のインテリジェンス

何度目だろうか、でも何度読んでも面白いというか
教えられ気づかされることの連続!養老さんはやはり、本物のインテリジェンスの持ち主だと思う。
「話せば分かるは大ウソ」
「常識と雑学を混同している」
「真に科学的であるというのは、
 反証されうる曖昧さが残っていることを認める姿勢」
先日もある人と話していて、自分の知っている知識が
絶対だとして譲らず、自分と異なる意見を認めようとしない場面に遭遇した。
真のインテリジェンスとは、自分が知らないことや理解できないことを一旦留保して、相手の考えを聞き、自分と意見が違っても排除せず、自分の考えや意見との違いを再考することなんだろう。そしてそれが、自分の間違いを認めることへとつながる。
そしてそれが、聖書の説く❝悔い改め❞なのだろう。
キリスト教用語❞は用いてないけど、養老さんも同じことを言っているのだと思う。

宗教は分かり難いもの!

キリスト教は信じ難いし、分かり難いと言われる。宗教家の端くれなんだから、そう言われた時にキチンと“説明”することが求められるし、当の本人もそう自分で思い込んで一所懸命説明しようとする(何度も経験して来た・苦笑い)。
しかし、信仰の世界の事は説明出来るモノではないし、重要なのは説明ではなく、話を聞くことと共感だと思う。
それに、信仰なんだから、納得の世界ではないし、“分かる''ことで信仰が得られる訳ではないのだから。
だいたい、二千年前に死んだ犯罪人が人類の罪を背負って死んでそれを信ずることで救われるとか、その死んだ人間が三日目に復活したなんてことを、分かり易く説明すること自体が怪しいし、胡散臭いと思っている。
これらは信仰の世界のことなんだから。
内原理恵、山本嘉博、他35人
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2021年の映画

今年は時間的余裕があるので、
封切映画が例年より多く観れている。
鑑賞作を挙げると
日本映画
・彼女は夢で踊る ※
・空に住む    ※
・天外者     ※
・ミッドナイトスワン  ※
・すばらしき世界
・キャラクター
・キネマの神様
・竜とそばかすの姫
・ドライブ・マイ・カー
・パンケーキを毒見する
・マイダディ
外国映画
・はちどり     ※
・燃ゆる女の肖像  ※
・世界で一番しあわせな食堂  ※
・82年生まれキム・ジヨン   ※
・ミナリ
ノマドランド
・ファーザー
・プロミシング・ヤング・ウーマン
・MINAMATA
ブータン山の教室
・アレサ・フランクリン アメイジング・グレイス  
※は高知は今年が封切だが全国的には昨年以前の作品
この中では
お気に入りは
日本では  すばらしき世界、キネマの神様、
      ドライブ・マイ・カー、マイダディ  
外国では  ファーザー、ミナリ、ノマドランド
      アメイジング・グレイス MINAMATA
      ブータン山の教室 はちどり
ってとこかな
詳しい感想等はまたの機会に
今年はベストテンが選べそうだな