発達障がい牧師ヒラリンの日記

世の中真っすぐな道は無いように、欠けや欠点の無い人もいない。発達障がいだから人生は面白い!

バプテスマまで

京都の仏教系の男子校から意図してではなかったが、兵庫県のミッション系の文学部に進学することになり、とても戸惑った。宗教に関してではない、だいたい入学式に出席して讃美歌が歌われるのを聞いて初めて、キリスト教の学校だったことを知ったほどなのだから(笑い!
その高校は、今は共学になったが、その頃は一学年600人、全校1800人の男子校で、進学先の大学の文学部は、通常は女子は7割ほどだったらしいが、私の学年は8割に迫る数だったそうで、阪神地区の深窓の令嬢の中に埋没した一年間だった。
京都から通う学生は多くはなく(私は下宿せずに四年間通ったが)、ゼミが同じだった友人のF君と通学の電車の中で親しくなり、彼に誘われて大学2年の夏から京都の単立(独立)教会に通うようになった。
その年の夏に阪神地区の大学の学生キャンプに参加したのだが、配属された班のリーダーの某名門女学院の音楽部のとっても可憐で素敵な一つ歳上のお嬢様のOさんに、見事に心奪われ、その彼女に喜ばれたい思いで教会に通い出したのだった。蛇足ながら、一つ歳上は同じだが、妻でないことは明言しておこう(笑い!
その班の男子リーダーのMさんも素敵な先輩で、後にそのキャンプの主催団体の主事をなさり、牧師にもなられた方で、この人にも惹かれて行ったことも、教会に通うきっかけとなった。
不純だとは思わないが、絵に描いたような若者特有の理由で通い始めたが、これがなかなか信じられなかった。
何かと口実をつけてOさんに電話したものだった。彼女と同じになりたい、彼女の喜ぶ顔が見たい一心だったので、彼女は神戸、私は京都と当然教会は別々だったが、毎週教会には通い、F君が所属していた大学の聖書研究会にも皆勤し、自分でも熱心に新約聖書を読み始めたが、読めば読むほどに疑問が沸いて来て、信じることが出来なかった。処女降誕とか、イエスが水の上を渡っただの、5000人に腹いっぱい食べさせたとか、あらゆる病気が即座に治ったなど、知れば知るほどわからなくなり、袋小路に入ってしまった。
詳しく書き出すと切りがないので、少し端折るが、あることがきっかけでMさんの御自宅に泊まりに行くことになり、Mさんには全幅の信頼を置いていたので、優しいMさんなら私の疑問に完璧に答えを与えて下さり、私の疑問は解消され、信仰を得ることが出来ると勝手に考えて、大いなる期待をもって、Mさんに正直に疑問をぶつけてみた。Mさんは私の話に心を込めて深夜まで耳を傾けてつき合って下さったのだが、私の疑問は解けなかった。
Mさんに聞いてもらって答えをもらえれば信じれるようになると思い込んでいただけに、私の失望は大きく、明朝Mさんの御自宅を離れ、暗い気持ちで学校に向かった。ああ、俺は一生信じることが出来ないままクリスチャンにはなれない、MさんにもOさんにも喜んでもらえない・・・と、若かった私は絶望とまではいかないけど、希望がなくなったような暗い気持ちで、阪急電車神戸線に乗って大学に向かった。
大学2年の時で、確か9月の誕生日を迎えた二十歳の年の10月のことだった。お昼前の電車は空いており、なんてことないいつものままの電車の風景。暗い気持ちのまま、シートに腰かけていたその時、窓からは秋の太陽が窓を通して、私の背中にその日差しをあてていた。その瞬間、パウロの回心の場面のように天からの光がおこったのでも、あの佐藤初女さんのように、空の雲でみ言葉が読めたのでもない、まったく普通の電車のなか、ただ、その背中を通してあたる太陽の温もりの中に、神さまの臨在を強く感じたのでした。心にあった様々な疑問は何も解消しないままだったけど、そんなこともうどうでもよくなった。処女で生まれようが、水の上を歩けたかどうか、俺には何の関係もない!でも、目には見えなくても、神さまは俺の近くにいつも居て下さるのだ、とそのことだけを確信することが出来た。繰り返すが、あれだけ悩んで苦しんだ疑問は疑問のままだったのだが。
目的の駅でもなかったが、次の駅ですぐに電車を降り、ホームにあった公衆電話に駆け寄り、通っていた教会の牧師に電話をかけ、「先生、樸、洗礼受けます。洗礼受けさせて下さい」と告げたのだった。

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