発達障がい牧師ヒラリンの日記

世の中真っすぐな道は無いように、欠けや欠点の無い人もいない。発達障がいだから人生は面白い!

10月からの旅立ち

患者仲間の一人が、心配して言ってくれたことがある。
それは
「平林さんは何かにつけて❝神さま神さま❞とばかり言っている。
もっと自分をしっかり持たないといけないのでは」。
同じようなことを義父(未信者)からも言われたことがある。
確かにそうかもしれない。
エスのみ言葉の
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」
        (新約聖書・マタイによる福音書6章33節)
の実践によるのであり、自分よりも神を第一
とすることは信仰者のあるべき姿だとは思う。
しかし、現実問題としては、「神を第一とする」
と云ったって、神が目の前に現れるのではないの
だから、具体的には現実の出来事の中で何を選ぶ
かであり、神のみ心だと思うことを判断することだ。
問題はそこである。
神の声が直接聞こえたり、
神が肉眼で見えるのではないのだから、
何をもって「神のみ心」だと判断するのかが
問われるのだ。
「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/ 
 私の道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。
 わたしの道はあなたたちの道と異なると/
 主は言われる。
 天が地を高く超えているように/
 わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/
 あなたたちの思いを、高く超えている。」
           (旧約イザヤ書55章8~9節)
とあるように、人間は神ではないのだから、
神の思いは異なり、高く超えているのだから、
人間には分かりっこないとも言える。
では、どうやって神のみ心を知るのか。
聖書には
「あなたの御言葉は、わたしの道の光
 わたしの歩みを照らす灯。」    (詩編119篇105節)
「わたしはあなたを目覚めさせ
 行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、
 勧めを与えよう。」   (詩編32編8節)
 
等とあることから、❝み言葉❞と❝聖霊❞を通して
神はみ心を示されるとされている。
それに反論するのではないのだが、
と言っても、聖書をただアトランダムに
読めばみ心が分かる訳ではないし、
聖霊の導きはもっと判断が難しい。
アンドレ・ジイド(ジッド)の小説で有名な
「狭い門から入りなさい。
 滅びに通じる門は広く、
 その道も広々として、そこから入る者が多い。
 しかし、命に通じる門はなんと狭く、
 その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
            (マタイによる福音書7章13~14節)
や、
「人間の前途がまっすぐなようでも、
 果ては死への道となることがある。」   

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1979年4月15日 京都鴨川上流でのバプテスマ

(箴言14章12節)
等から、
楽そうでない困難な道がみ心だとする考えもある。
しかし、私はそうとばかりは思っていないし、
それがみ心の判断の決定的要因だとも思っていない。
抽象的で恐縮だが、
私が判断の材料にしているのは
①自分の欲望をまず棚にあげ、
 祈りつつ与えられた状況に任せる
②心の平安があるか
③み言葉の裏付けがあるか
④周囲の者の助言にも耳を傾ける
これだけがみ心を探る判断の唯一の正解だ
とは思っていない。そして信仰者によって、
自分なりのやり方があると思うが、
でも、だいたい①~③は多くのクリスチャンが
何らかのかたちで取り入れていると思う。
しかし、私はそれだけでなく
④も重視するようにしている。
それもクリスチャンに聞くだけでなく、
未信者の方の声にも耳を傾けるようにしている。
そうでないと、
どうしても独りよがりの決定になりかねないから。
しかし、④の優先順位は④番目である。これを先に
してしまうと判断をあやまってしまう。
あくまでも①~③の結果の判断として
④を取り入れているだけである。
さて、昨年の辞任以来求めて来た私の進むべき
道だが、現在は高知に留まり、
長浜の葛目家を当面の拠点として、
家庭礼拝を、ハイブリッド(対面とon-line)で行なう。
自分の願望とすれば、福岡や関西に気持ちは
引かれていたのだが、これまでの導きままに
高知を拠点とした。
難病が与えられ、発達障がいの診断を受け、
関係機関と主治医のアドバイスから、
傷病手当と雇用保険の失業給付を、
そして来年度からは障害者年金か老齢年金
を受ける導きを受けて来た。
詳しくは次週3日の礼拝で述べるが
平林家・家庭礼拝のミッションの一つが
「金継ぎの群れ」
そして与えられたみ言葉は
旧約聖書エレミヤ書18章1~8節
「主からエレミヤに臨んだ言葉。
『立って、陶工の家に下って行け。
そこでわたしの言葉をあなたに聞かせよう。』
わたしは陶工の家に下って行った。
彼はろくろを使って仕事をしていた。
陶工は粘土で一つの器を作っても、
気に入らなければ自分の手で壊し、
それを作り直すのであった。
そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。
イスラエルの家よ、この陶工がしたように、
わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、
と主は言われる。
見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、
イスラエルの家よ、お前たちはわたしの
手の中にある。あるとき、わたしは一つの民や
王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、
もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、
わたしはその民に災いをくだそうとしたこと
を思いとどまる。』」
被造物である人間は、器に過ぎない。
それも割れやすい陶器のようなもの。
造り手である神は陶器師(陶工)。
しかも、陶器師は造っても、
御自身の考えによって、割られることもある。
しかし、それで終わりとはされない。
もう一度ご自身の手によって、造り直される。
どうして病があるのか、どうして障がいがあるのか。
欠けのある器であることも陶器師のお心次第。
そして欠けのある器を、神は金継ぎによって
造り直され、生まれ生まれ変わらせて下さる。
そのことを教えられた。
金継ぎの群れとして。