10月からの旅立ち
患者仲間の一人が、心配して言ってくれたことがある。
それは
「平林さんは何かにつけて❝神さま神さま❞とばかり言っている。
もっと自分をしっかり持たないといけないのでは」。
同じようなことを義父(未信者)からも言われたことがある。
しかし、現実問題としては、「神を第一とする」
と云ったって、神が目の前に現れるのではないの
だから、具体的には現実の出来事の中で何を選ぶ
かであり、神のみ心だと思うことを判断することだ。
問題はそこである。
神の声が直接聞こえたり、
神が肉眼で見えるのではないのだから、
何をもって「神のみ心」だと判断するのかが
問われるのだ。
「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/
私の道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。
わたしの道はあなたたちの道と異なると/
主は言われる。
天が地を高く超えているように/
わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/
あなたたちの思いを、高く超えている。」
(旧約イザヤ書55章8~9節)
とあるように、人間は神ではないのだから、
神の思いは異なり、高く超えているのだから、
人間には分かりっこないとも言える。
では、どうやって神のみ心を知るのか。
聖書には
「あなたの御言葉は、わたしの道の光
わたしの歩みを照らす灯。」 (詩編119篇105節)
「わたしはあなたを目覚めさせ
行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、
勧めを与えよう。」 (詩編32編8節)
等とあることから、❝み言葉❞と❝聖霊❞を通して
神はみ心を示されるとされている。
それに反論するのではないのだが、
と言っても、聖書をただアトランダムに
読めばみ心が分かる訳ではないし、
聖霊の導きはもっと判断が難しい。
アンドレ・ジイド(ジッド)の小説で有名な
「狭い門から入りなさい。
滅びに通じる門は広く、
その道も広々として、そこから入る者が多い。
しかし、命に通じる門はなんと狭く、
その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
(マタイによる福音書7章13~14節)
や、
「人間の前途がまっすぐなようでも、
果ては死への道となることがある。」
(箴言14章12節)
(箴言14章12節)
等から、
楽そうでない困難な道がみ心だとする考えもある。
しかし、私はそうとばかりは思っていないし、
それがみ心の判断の決定的要因だとも思っていない。
抽象的で恐縮だが、
私が判断の材料にしているのは
①自分の欲望をまず棚にあげ、
祈りつつ与えられた状況に任せる
②心の平安があるか
③み言葉の裏付けがあるか
④周囲の者の助言にも耳を傾ける
これだけがみ心を探る判断の唯一の正解だ
とは思っていない。そして信仰者によって、
自分なりのやり方があると思うが、
でも、だいたい①~③は多くのクリスチャンが
何らかのかたちで取り入れていると思う。
しかし、私はそれだけでなく
④も重視するようにしている。
それもクリスチャンに聞くだけでなく、
未信者の方の声にも耳を傾けるようにしている。
そうでないと、
どうしても独りよがりの決定になりかねないから。
しかし、④の優先順位は④番目である。これを先に
してしまうと判断をあやまってしまう。
あくまでも①~③の結果の判断として
④を取り入れているだけである。
さて、昨年の辞任以来求めて来た私の進むべき
道だが、現在は高知に留まり、
長浜の葛目家を当面の拠点として、
家庭礼拝を、ハイブリッド(対面とon-line)で行なう。
自分の願望とすれば、福岡や関西に気持ちは
引かれていたのだが、これまでの導きままに
高知を拠点とした。
難病が与えられ、発達障がいの診断を受け、
関係機関と主治医のアドバイスから、
傷病手当と雇用保険の失業給付を、
そして来年度からは障害者年金か老齢年金
を受ける導きを受けて来た。
詳しくは次週3日の礼拝で述べるが
平林家・家庭礼拝のミッションの一つが
「金継ぎの群れ」
そして与えられたみ言葉は
「主からエレミヤに臨んだ言葉。
『立って、陶工の家に下って行け。
そこでわたしの言葉をあなたに聞かせよう。』
わたしは陶工の家に下って行った。
彼はろくろを使って仕事をしていた。
陶工は粘土で一つの器を作っても、
気に入らなければ自分の手で壊し、
それを作り直すのであった。
そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。
『イスラエルの家よ、この陶工がしたように、
わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、
と主は言われる。
見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、
イスラエルの家よ、お前たちはわたしの
手の中にある。あるとき、わたしは一つの民や
王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、
もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、
わたしはその民に災いをくだそうとしたこと
を思いとどまる。』」
被造物である人間は、器に過ぎない。
それも割れやすい陶器のようなもの。
造り手である神は陶器師(陶工)。
しかも、陶器師は造っても、
御自身の考えによって、割られることもある。
しかし、それで終わりとはされない。
もう一度ご自身の手によって、造り直される。
どうして病があるのか、どうして障がいがあるのか。
欠けのある器であることも陶器師のお心次第。
そして欠けのある器を、神は金継ぎによって
造り直され、生まれ生まれ変わらせて下さる。
そのことを教えられた。
金継ぎの群れとして。